歌の翼に君を乗せてはるかに遠いガンジスのほとりに行こう。憧れに満ちてそう詠ったのはハイネであるが、わたしは本の翼に乗って、幼い頃から随分いろいろなところを訪ねてきた。
記憶に残る一番古い旅先はプ一熊の魔法の森である。この頃では、用事を抱えて、仕事に関わりのある美術書に出張するばかりだが、飽いてしまうと、ヤマネコ島の入り江にヨットを見に行ったり、竜につかまって上空からアースシーを眺めたりしている。本は羽ばたき一つで、めざす世界の真中に連れて行ってくれる。
本を鳥に喩えるのは、よくあることらしい。確かに、ぱらぱらとページを繰れば羽音が聞こえてくるし、手になじんだお気に入りの本を左右のバランスの良いあたりで開き、背に指を添えて上下に揺らすと、けっこう上手に羽ばたいて飛び立ちそうだ。(くれぐれも図書館の本で試してはいけない)
そこで、県立図書館のロビーに本の鳥が舞い言の葉の散り敷く森が出現するような、インスタレーションの企てを想像してみる。もちろん朗誦する声や音楽こだましても良いし、音のない映像を流すというのも考えられる。いっそのこと正面の堂々たる列柱を活かして、美術館の石舞台を背に、ギリシア悲劇はどうだろうか。案外これが、図書館周辺の空間のイメージには最強かもしれない。
ギリシアといえば、わたしは古代ギリシアやローマ時代に著された本の一節を通して、詩や戯曲に限らず声を出して語ることが、またその声に耳を傾けることも、読書の歓びの一つだと知った。
大学で、ラテン語を選択したときのことである。受講生はカンタータを研究するという音楽学部の学生とわたしの、たった二人だった。一人きりのときもある。見方によっては贅沢な授業のために、先生は朝早く、別の大学から通ってこられた。
古典語や古典文学を専攻するわけではなく、はやくも暗記するよりほかなさそうな格変化の総量にうんざりしている生徒に対して、大変親切なY教授は、練習問題を強制するかわりに、よく詩や、どちらかの受講生に関係がありそうな文献の一節を朗誦してくださった。
一応ラテン語の授業のはずだが、古代ギリシア文学を専門とされていた教授は、生徒がアルファベットすら怪しいことなどかまわずに、サッフォーの詩やプラトンの対話篇までも歌った。はっきりとした音の高低とリズムは、読む、あるいは語るというより、歌うという方がふさわしい。パイドロスの有名なくだりは、多分わたしのために選ばれたものだったろう。
眼を通して美の流れを受け入れると、身体が熱くなる。その熱によって、すっかり硬く干からびていた翼の生え出でるべきところが溶かされ、翼が芽生え成長し始める。
「魂はもと、その全体にわたって、翼を持っていたのだから。(藤沢令夫訳)」と結ばれるその一節が、音の響きとして耳に届いたとき、かなりの干からび度の高いわたしの
なかにも、共振し、温かく流れ出すものがあった。
読書とは言葉を呼び出し、生きたものとして現前させる能動的な行為であること。そして本の翼に乗って高く飛翔するためには、魂のありかを思い出さなければならないこ
とに気づいた一瞬だった。
(県立図書館専門図書推選委員)
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